『ル・ナフィア』の設定と背景

先日リリースした『ル・ナフィア』の背景にある設定やトリビアを紹介します。

モネ邸の歴史

モネ邸

クロード・モネは、1881年にアルジャントゥイユからジヴェルニーに引っ越し、1926年に死去するまでその地で暮らしました。モネの死後は義娘ブランシュ・オシュデ(2番目の妻アリス・オシュデの連れ子)が邸宅を管理しましたが、そのブランシュが1947年に死去した後、管理人不在の状態になります。

『ル・ナフィア』の舞台は1975年で、モネ邸の荒廃が極まった時期です。その頃には『睡蓮』の庭はほぼ自然に帰り、「日本風の橋」も橋桁が落ちるほど朽ち果てていました。

その後、1977年にようやく芸術アカデミーの保護対象となり、1980年に復旧が終わって一般公開されます。現在ではノルマンディー地方ではモン・サン・ミシェルに次ぐ人気の観光地となっています。

ちなみに僕は2017年にパリやノルマンディー地方を巡るツアーに行きましたが、ジヴェルニーにもオランジュリー美術館にも行きませんでした。当時は全くモネに興味が無かったのです。もったいねえ。

脇役の名前

ワキ

本作の進行役は、いかにも1970年代丸出しのロン毛・太ぶちメガネの若手アーティストが務めています。当時のフランス映画やドキュメンタリー映像を参考にしましたが、このビジュアルの人が非常に多い。

名前は特に決めていませんが、フランス人で脇役なので、「ピエール・ワキ」と仮に呼んでいます。

ピエール・ワキの車

Renalut 4L

フランスの国民車である「ルノー・4L」(Wikipedia) です。全然売れてない貧乏アーティストの車なので、1960年代の初期モデルの中古車に乗っています。

なおペトロヘッド(車マニア)の方々なら、「フランスの国民車といえば シトロエン・2CV だろ」と看破されるかもしれません。しかし 2CV は1970年代にはヒッピーに愛好されて反体制的のアイコンとなってしまい、香ばしいスメルをまとってしまいました。余計な含みが入るのは本作にふさわしくないと考え、避けました。杞憂な気もしますが。

ピエール・ワキの絵

Renalut 4L

この睡蓮のデッサン画は、流行りの画像生成AI、 Stable Diffusion を使って作成しました。SD は現時点では意図した構図にできないので、作画にはとうてい使えないレベルですが、こうしたちょっとした画像を生成するなら有益です。自分で描いたり著作権フリーの画像を探すより早い。

能からの引用

能楽に知見のある人は、本作が夢幻能の構造を借りていることに気づいたかもしれません。旅人(ワキ)が故人ゆかりの地に行くと、そこに彷徨っている霊と出会い、夢の中で過去の執心を語られ、目を覚ますと何も無かったかのように元の風景が広がっている。典型的な夢幻能です。

細かい表現も能から多くを着想しています。カミーユが手で顔を覆う仕草(シオリ)や、名所(名画)づくし、睡蓮の絵と戯れる「序の舞」など。序盤の具象的な語りから、徐々にカミーユの心情にフォーカスが移って非論理的になる進行なども。

もともと本作は前作『光のカミーユ』制作中に、「同じテーマに能の構成を用いたら面白いのではないか」とふと閃いて作り始めたものです。試しにプロットを書いてみたら、圧倒的に高い品質になってしまい愕然とした、という経緯があります。

「19世紀のフランス人をモデルに能?」といぶかしがる方もいるかもしれませんが、中世日本以外に取材した能は多く創られています。ギリシャ悲劇や、イギリス文学など。最近では人間国宝・梅若実六郎玄祥桜雪が、マリー・アントワネットをパリで演じたりもしています (人間国宝 能楽師 パリでマリー・アントワネットを舞う | BS朝日)。


『かぜはふり』 の頃から露骨に能を参照している僕ですが、その理由はというと、能特有の強烈な創作エネルギーと巧みな表現技法を習得したいからです。

能の美の背景には、中世日本特有の無常観があり、それは現代でも非常に強い訴えかけを持っています。数々の技法はその世界を表現するために高度に洗練されています。優れた役者の舞台を観ると、時空が歪んで美や怨念の世界に入る心地がし、心を内外から揺さぶられます。その舞台の元となっている謡曲(能のシナリオ)も、優れた作品は文字を読むだけでも食らいます。漫画・映画・ゲームなど、スクリーン娯楽では永久に到達し得ない高みにあります。

そんなわけでここ1年は『解註謡曲全集』 などを繰り返し読み、そこから派生して能楽師や能楽研究者の著作を読み漁ったり、和歌を学習したりしています。優れた娯楽は、あらゆる娯楽に応用可能なインスピレーションに満ちています。

この路線にもっと習熟して、漫画で表現できるようになりたいですね。ただそれはもう漫画とは呼べない、絵と文字を使った別の表現になる予感もします。